松原智恵子が炸裂する「愛するあした」 ネタばれあり
投稿者 takishinzi 2008年11月1日土曜日 時刻: 1:381969年の映画「愛するあした」は、製作は芸映社なのだが、それでもまた、ちゃんとオープニングにダイニチでもなく歴とした日活マークが出る日活映画でもあったのである。
今回は、そっち方面から、映画「愛するあした」について書きたい。
松原智恵子の映画として、落ち着いて、観ると、これは、松原智恵子が炸裂しまくった映画というのに気がついた。
松原智恵子・・・。
日活時代の松原智恵子は実はスゴいのではないか、と思いつつあったわけだ。
そりゃ、初期は気軽に人質になったり して下着姿でぶら下げられペンキ塗られたりするが(多分鈴木清順が監督してたヤツ)、日活が落ち目になりニューアクションとかになってくると、どうも、な んか、自らトラブルを呼び込み周りをトンデモ無いところへ持っていくというか、一人で映画丸ごとノリを変えるぐらい、スゴい女優じゃないか、と薄々思って たわけだ。ただ、渡哲也やらがドンパチやら刺した刺されたとかの世界だから、そっちに眼をとられてしまう。
この映画をして、松原智恵子は、上の重しが無く、まさにフルスロットルで「松原智恵子」しているのではないか。
最初の10分で、恋人役で学生運動まだやっている和田浩治とこういうケンカをおっぱじめる。
「だいたい学園闘争はだな、日本帝国主義の大学の再編に対する闘いであると同時にだ、学園内にあらわれる矛盾に対する闘いであるんだよ・・それを賭してわれわれはいかに社会変革を」
とまあ、当時の全共闘風言葉をちりばめて、和田浩治が松原智恵子に絶叫調で云うわけだ。
そしたら、松原智恵子・・こんな怖い顔して、
「まった! 君それ本気で云っているの!!」
和田浩治よりもっと大きな声だ。オレは思わず、自分が云われてるような気がして、背中がびゅんとなった。怖い。怖かった。
やがてオレは、長年の疑問がすーーーーーっと氷塊していく爽快さを味わった。
オレは納得した。60年代後半、日本、いや世界中の大学に吹き荒れた学園闘争は、松原智恵子のこの一言で終わったのだ!東大安田講堂落城とかじゃない。松原智恵子が終わらせたのだ!
矢作俊彦風オーバーに書いてしもたが、まあ、怖かったことは事実である。
さて、映画での松原智恵子の行動を次に列挙してみた。列挙して始めて、もうあまりのスゴさにただただ驚嘆するばかりである。これが大映で若尾文子がやったら、ドロドロのドラマになり、少なくとも三人は人死にが出て、真っ赤に終わるんだろう。だいたい、加賀まりこが小悪魔なら、松原智恵子は魔王ルシフェルに匹敵する。
・文通相手の、大富豪でプレイボーイという触れ込みの文通相手、日系ブラジル人の中山仁に会いに行くため、邪魔になるからというワケのわからん理由で、恋人和田浩治を親友伊東ゆかりに泊まりがけで預けてしまう
・なのに、中山仁とあった瞬間、ビビりまくるが、そのうち、どーでも良くなったのか、一緒にさんざんぱら遊び歩く。
・そのくせ、伊東ゆかりと預けた恋人和田浩治の仲がが気になるのか、突然、嫉妬の電話を伊東ゆかりにして困らせる
・さすがに鈍感ながらも、「預けられた」ことに気がついた和田浩治が怒ると、逆ギレ、たじたじとなった和田浩治が困って、何故か、いきなり、伊東ゆかりの孤児院松原智恵子+伊東ゆかりで学内コンサートを開くことを提案。まあ、はぐらかされているわけだが、何故か、快く了承する。
・コンサート出演了承した舌の根が乾かないうちに、伊東ゆかりに会い、学内コンサートに出るのが納得いかない、和田浩治に利用されているのではないか、とゴネはじめる。あまつさえ、和田浩治をボロクソ云うので、伊東ゆかりがたしなめると、またも逆ギレ、伊東ゆかりと和田浩治の関係を疑う
・コンサート直前になって、伊東ゆかりの制止を振り切って、タクシー飛ばして大富豪という日系ブラジル人中山仁に会いに行く。
・慌てた伊東ゆかり、和田浩治、追いかける。
・コンサート始まるも、当然松原智恵子と伊東ゆかり目当ての満員の学内コンサート、孤児院のガキ共が「どじょっこだのふなっこだの」とか合唱したりして時間を持たすことになるが、やがてブーイングの嵐。
・ようやっと赤プリで中山仁に会った途端に、いきなり、寄付金寄こせ、とせびる、実は貧乏な船員であるとわかり、松原智恵子諦める
・そこへ和田浩治と伊東ゆかりが加わり、ちょっとした騒ぎになるが、中山仁が松原智恵子が和田浩治をホンマは好きやということを云って、松原智恵子も自分は和田浩治が好きやということに気がついて愕然とする
・松原智恵子ようやっと学内コンサートに戻り、何を思ったか、「あたし正直に言うわ」と悲壮な決意。
・そして、マイク取って、何を云うかと思いきや、「お金を取ってあたしたちのコンサート開く価値が、あたしたちにあるのか?」と観客に問いかける、ほとんど彼女と伊東ゆかり目当てだから、もちろん、一同同意。
・そこまで云うなら何か唄ったりするのかと思いきや、彼女はそれだけで、引っ込み、後は伊東ゆかりに任せ、伊東ゆかりが一生懸命「愛するあした」を唄っている間、そんなことおかまいなしに、楽屋で和田浩治といい感じになるが、そこへ左とん平が小切手持って現れる。ブラジルへ帰った中山仁が左とん平に預けていたのだ。「巨額」の小切手だ。
中山仁となーんも無かったのである。数時間会った程度である。渡す中山仁も中山仁だが、せびった松原智恵子が悪い。
なんちゅう女やねん!
・・・とオレもいいかげん腹が立った。
そしたら、そうしたオレのような観客を見透かしたように、こんな顔するわけだ。
ここまで、松原智恵子のあんまりなあんまりさに正直腹が立っていたのだ、でも、こんな顔されたら・・・すべてを許せてしまう。
しかも、ラストぎりぎりに、この映画でついぞ見せなかった次の笑顔でしめてみせるのであーる。
惚れてしまうがな・・・
この映画の松原智恵子は、まさにオレが60年代後半に対して求めるアナーキーさ、ラジカルさのすべてがあったのである。
われわれは、木村拓哉が15年もトップを走ることのできる時代に棲んでいる。
こんなん買いました!
投稿者 takishinzi 2008年10月15日水曜日 時刻: 22:19maxell Vraison 高音質化技術「Bit-Revolution Tecnology」採用ヘッドホンシステム オーバーヘッドタイプ ブラック HP-U24.OH-BK 日立マクセル 2006-11-25 by G-Tools |
ヘッドフォンなのだが、元々は2万円ぐらいなのが、3,150円ほどだったのと、まあ、ヘッドフォンそのものよりも、Vraison BRちゅう音質改善ソフトがついてくる(但し、MacOS用はダウンロード)から。USB接続のちっこいのがついてきて、それにヘッドフォンジャックをつなげるちゅうカタチになるから、どんなヘッドフォンでも、接続可能。
肝心の「高音質化」なのだが、たしかにまあ違う。
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不具者は神か?!/第4回
投稿者 takishinzi 2008年9月23日火曜日 時刻: 0:40
てめぇら肝っ玉がちいせえから、
おれがやってるようなことをやりたくても出来ねえだろう。
たまに楽しいといったら祭りぐらいが関の山で、
挙げ句の果てはジジイになりババアになり、
糞小便の世話されて死ぬだけだ。
この大バカヤロウ!
[From 不具者は神か?!/第4回]
主人公が遠藤ケンヂちゅうもんだから、読まなアカンと思ったけど
投稿者 takishinzi 2008年8月17日日曜日 時刻: 19:18 ほぼ一気に浦沢直樹「20世紀少年」(22巻)読み通す。
主人公たちの年齢が1970年の時点で小学校5年生、つまり、オレより一学年下だ。小学校時代の一時期熱中しまくった基地遊びの恍惚を久しぶりに思い出した。それに、大人になって主人公たちが40過ぎたある日、突然、小学校時代にでっちあげた「よげんの書」が何者かによって、現実化されていくという悪夢的状況というツカミが凄い。最初の頃はもう興奮するほど面白い。
ただ、文句なしに面白いとはいいがたい。文句有りで面白い。
例えば、推理小説を読むとする。まあ、殺人があって、探偵が犯人をみつけるために、推理し捜査し、その間、探偵が危険な目にあったり、或いは新たな殺人が行われたり、読者が登場人物に感情移入できた頃を見計らって、その登場人物のとんでもない過去があばかれたり、時には、大きな組織の悪とかもあばかれたりする。そうした過程と探偵の卓越した推理で犯人を特定し、犯人に白状させて、一件落着、犯人は逮捕され、物語は終わりかけた、その瞬間、、死んだと思われた被害者が「ばははーい」と生き返ってきたらどうなるだろう?
犯人は犯人でなくなるし、 そもそも殺人事件ですらない。まあ、それで一応、作者はええんだろうが、そこまで、殺人事件として読んできた読者は「なんやねん??」となり、腹が立ってくる。このパターン、一度ではないのである。あと、「超能力」も安易に使われすぎている。
浦沢直樹「20世紀少年」はこの手のギミックがあまりにも多すぎる。 ようやっとひとつの謎が明らかになると思って、次のページをめくると、全く新しいキャラクターがでてきて、彼らのエピソードが始まり、「ちょっと待て、謎はどうなったんや?」と思いながらも、魅力的なキャラクターにひきこまれ、そこでも、また新しい謎が提示され、ようやっと謎をつきとめたと思ったら、また、新しいキャラの全く異なる場面でのエピソードが始まる。
あと世界滅亡は一回やでぇ。二「しん・よげんの書」以降のエピソードはもう惰性としか思えない。
22巻ようやっと読み終えて、まだ、話がおわっていなかったが、もう、ええわ、状態。
まあ、60年代をあまりにも「懐かしがって」みせるウソくさい風潮にトドメを刺したことは、確かだし、