クラッシュの「IF MUSIC COULD TALK」とマイキー・ドレッド


古い音楽を聴く場合、やっぱ、一番の落とし穴は「懐かしい音楽」であろう。あたりまえである。無限大にある未知の音楽に、やなあ、時系列無視して、ずっぽり深くまで垂直にダイブしたろかいな、と思てるのに、水面あたりに漂っている「懐かしい音楽」程度にちゃぷちゃぷ浸って、懐かしさついでに、てめえの過去まで美化しまくるという快楽は捨てなアカンのや。

 まあ、あからさまに落とし穴落とし穴しておる場合は、午前0時以降、阪急三宮駅の北側やら十三やら阪急南通商店街、或いは15年前の恵比寿駅周辺、道玄坂上り、歩いてさんざん学んだもんで、なんぼ魅惑的な落とし穴であってもなんぼ安く思えても或いは呼び込みがしつこくても(話が逸れてます)、「行ったらアカン行ったらアカン」と言い聞かすことになんとかなる。ストイックにいかなあかんのよ。
 
 今、クラッシュ、聴いとる。サンディニスタの「If Music Could Talk」ちゅう曲と、「Living In Fame」ちゅう曲をかわりばんこに。
 そう、オレをジャマイカの音楽に引きずり込んだのは、ボブ・マーレイでもなければ、エリック・クラプトンでも、ストーン・ラブでも、ない。この2曲なんである。
 

サンディニスタ!
 さっぱりしようと飛び込んだ一番風呂が、蜂蜜風呂だった、ちゅう感じであったろうか。さっぱりするどころか、にゅたにゅたでどろどろ。 
 クラッシュといえば、それまでも、ジャマイカの音楽にかなりの色目を使っていたもの、そいでも、やっぱ、パンク、熱めのバスクリンなど入っていない新湯(さらゆ)の一番風呂みたいな曲が一番、気持ちよく、いつものように、我慢できるギリギリの熱いのを、10数えるだけガマンして、さーっと上がって、さっぱりしようとしたら、ぬるめの蜂蜜みたいに粘度の高いサウンド、まとまわりついて、べとべとしまくり、慌てて出ても、べとべとはなかなか、取れん。例によって喩えれば喩えるほどワケがわからなくなっているが、まあ、そういう感じ。
 
 べとべと感が不快でたまらなかったが、そのうち、何の拍子か、快感に変わり、今日に至っているわけである。

 「If Music Could Talk」と「Living In Fame」は同じ曲なのである。前者はクラッシュがヴォーカルを取っているが、左チャンネルと右チャンネルと別々の歌詞を歌い、ある時は交錯しある時はバラバラにある時は片チャンネルだけ、という不思議な音であった。レゲエレゲエしたレゲエではないんである。メローでちょっと泣きが入っているように聞こえたから、蜂蜜風呂でも我慢しようとしたのかもしれん。

 「Living In Fame」は、「If Music Could Talk」と殆ど同じカラオケに、マイキー・ドレッドという人が、だみ声のネズミみたいな声で殆どワケのわからん言葉でどんどんつなげていき、ごにょごにょが続いたら、時折、えぇい!わぁお!とか掛け声まで入れながら、或いは「If Music Could Talk」からの「I feel kinda lonely」がここぞというところで入り、あっというまにエコーで消えて行き、また、ごにょごにょ。ところどころ、セックスピストルズやらX−ジェレーションやらの名前がどうにかこうにか聞き取れるといった案配だ。

 まったく同じカラオケなのに、この変さ具合の違いは、なんじゃ、これ?、ちゅうもんで、そうやって、交互に聴いとったら、いつのまにか、「蜂蜜風呂」にどっぷりはまってもたんや。

 まあ、それまでも、クラッシュは、レゲエのカヴァーは最初のアルバムの「Police & Thieves」から始まって、「Armagedon Time」やらなんぼでもあるが、どっちかというと、そういうのは、どこまで行ってもやっぱりクラッシュの音で、さしずめ、「熱い新湯の風呂」、当時から今に至る「蜂蜜風呂」の「はまり方」は私はこの二曲で覚えましてん。
 
 ちゅうことで、久々に何度も聴いてみたが、やっぱ、懐かしくて、エエ。あの頃のオレは光っていたもんなあ。さしずめ、あの時きみは若かった、ごめんね君を困らしちゃって、ちゅうもんよ。人生。

 
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